真っ赤っかの黒田大阪府政下で義務教育時代を送った私は、社会人になるまで

「軍人は全て軍国主義者であり、無理やり戦争を引き起こし、日本を不幸にした張本人で極悪人」

と思い込んでいた。

何とも素直な青春時代を送ったものだ。

 

その私がある日「枕草子」を借りるために出かけた図書館で、偶然見かけた一冊の文庫本「反戦大将・井上成美」に目を奪われた話は以前にも書いた。

日本人であって良かった。

 

日本人の先輩にこんな立派な人が居たのだ。官僚主義もとことんまで突き詰めれば善である。

と、それまでの人生で身につけた常識を一転させる衝撃的な出会いだった。

全てを語り尽くすことは出来ないが、先の「反戦大将井上成美」のほか、阿川弘之の小説「井上成美」、伝記刊行会の「井上成美」、および、米内光政や山本五十六の伝記、伝記小説に現れる井上の記述から知ったことを基に書き出してみたい。

 

自分のメモもかねて。

(1)頭でっかちの秀才

仙台の旧制中学校の卒業を1年残した明治39年、海軍兵学校の入試を181名中9番の成績で37期兵学校生徒として、江田島の校門をくぐった。

折しも日本海海戦の翌年で、旧制高校へ入るのより難しいと言われた海兵に、中学5年卒や、浪人生の中で4年生が余裕の成績で合格したのである。

兵学校在校中の記録は少なく、後年の回想で英語が苦手でクラスメートに勉強の仕方を教わったと書いてあるが、どうにも嘘くさい。

この人の語学力は、後に5カ国語を自由に操り、一番怪しいのがズーズー弁の日本語と言われた人である。

早い話が、実技はともかく学科は図抜けて一番だったと言え、卒業時の席次は2番に上がっていて、殴り殴られの海兵を卒業した。

ここで、違和感があるのは、軍隊は序列階級が厳しいだけで無く、席次が公に公開されることである。

その結果、今でも9番で入学し2番で卒業ということがわかるのである。

これは、クラスメート間だけで無く、全海軍士官の序列が毎年公開された。

彼らが大尉に昇進する頃には、同期クラス内での序列が中位だと、1年後輩のトップに、下位近くだと、2年後輩のトップに序列が抜かれることになる。

人権無視に近いものだが意味がある。

軍隊であるからには指揮命令権を明らかにしておかねばならない。

例えば、士官が3名、下士官6名、兵20名からなる部隊では最先任(即ち序列トップ)の士官Aが指揮を執る。

運悪く、そのAが被弾して指揮権行使できなくなったとき、直ちに残り2名の士官のうちのどちらかが指揮権を継承しなければならない。

ジャンケンポンしている場合では無く、次の序列の士官Bが自動的に指揮権を継承する。

そのことを、部隊編成された時に26名全員が把握できるように普段から序列が公開されているというわけ。

 

(2)貴重な出会い、初級士官時代

海兵を卒業して少尉候補生になった井上は、待ちに待った練習艦隊による遠洋航海に出る。

37期の遠洋航海の練習艦隊は宗谷と阿蘇の2隻からなり、明治43年に豪州方面を航海した。

いずれも日露戦争の戦利品の巡洋艦である。

司令官は日本海海戦の旗艦三笠艦長「伊地知彦次郎」、井上は宗谷乗組の最先任候補生。

宗谷艦長は日本海海戦で鬼と呼ばれ、首相として太平洋戦争末期に一億玉砕から日本をギリギリで守った「鈴木貫太郎」、指導官は「山本五十六(当時高野姓)」と「古賀峯一」。

いずれも昭和の初めに井上と志を同じくし、軍国主義の台頭に体を張って抵抗しながらも、開戦後は連合艦隊司令長官として非業の戦死を遂げる2人である。

 

鈴木貫太郎の訓示

遠洋航海の成績査定会議が終わった後、鈴木艦長は候補生を集めて次のように訓示した。

「今日、会議の席上で、宗谷の候補生は成績が悪い、と伊地知司令官に言われた。

だが、教育の成果というものは短日月の間に表れるものではない。吾々はそんな教育はしなかった。

私は司令官に、十年、二十年の後をご覧願いたいということを申し上げてきた。

だから、私たちの教育の善し悪しは、お前らのこれから先の実績によって評価されることになった。

すべては、そのときになって証明される。一生懸命やれ。十年後、二十年後の宗谷候補生雄諸君!」

この訓示は後年、兵学校長になった中将の井上の校長室に、総理大臣就任直前の、退役海軍大将「鈴木貫太郎」が訪れたときに、再度意味を持つ重要な訓示である。

 

翌年、少尉に任官し、巡洋艦「鞍馬」に乗り込んだ。

国産の最新鋭艦であり、海兵入学時の校長、島村速雄中将(黄海開戦時の連合艦隊参謀長、のち元帥)が司令長官の第二艦隊に編入された。

鞍馬は僚艦「利根」とともにジョージ五世戴冠式に際して行われる観艦式に列席するため、英国に向かった。

僚艦「利根」の砲術長はのちに井上と肝胆相照らすことになる米内光政大尉(のち、大将、GF長官、海相、首相)であり、運命の出会いであった。

翌年帰朝後、井上は海軍砲術学校普通科学生となる。このときの教官が先に出会った山本(当時高野姓)と米内であった。

課程修了後今度は水雷学校の学生となる。

エピソードとしては、教官に小言を言われ、

「それでも自分が正しいと思うものは出て行け」

と言われた。

まぁ、よくあるケースである。

ただ、井上は黙って平然と教室を出て行ったと言うことだ。

後年、海軍時代、退役後も含めて死ぬまで自分が正しいと信じたことに信念を変えない姿勢はこの頃から現れている。

中尉に進級後は各種艦艇を転々と乗り組むことになる。

井上のような成績優秀の将官候補は若いうちから専門に染めさせず浅く広く経験することになる。

まだこの時期の井上には当然ながら歴史に残る業績はない。

(定年まで勤めてもそんな業績は無いのが普通で、あっても一つがいいところだが、井上はもう少しすると、1年に一回の割でそのような業績を挙げていく)

その話はもう少し後になる。

 

つづく

コメント

  • 井上さんの存在、多くの方に知ってもらいたいと思います。


    2013年5月22日 11:27 | japanese-ful

  • コメントありがとうございます。
    本当にそう思います。


    2013年5月22日 16:22 | makの枕草子

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